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​エイリアンと共同体

課題:
①身のまわりにいるエイリアン。その理由。
②既存の作品を複数選び、共同体と疎外めぐる問題を抽出し、その解決策を考察する
担当:橋本みなみ

①身のまわりにいるエイリアンについて

 私にとって、身のまわりにいるエイリアンは「クレーマー」である。クレーマーとは、商品やサービスに納得がいかなかった時に、本来の領域を超えて過剰な苦情や理不尽な要求を求めてくる人を指す。

私が彼らをエイリアンだと感じるのは、彼らが一見私達となんら変わらない見た目をしているのにも関わらず、とても常識とは思えないような発言や行動をするからである。文句だけではなく、それに便乗して赤の他人である店員やスタッフに対して暴言を吐くことも多い。多少店側にも責任がある場合もあるが、大抵は彼らの暇つぶしや八つ当たりでそのような非常識な行動を行う。つまり見た目で自分たちと異質なものと判断するのではなく、彼らの中身、本質が私達と異なっている。異質な部分として価値観の差が大きいが、他にも他人の立場や状況を配慮できない点や理不尽な理由をつけて他人に責任を押し付ける点が挙げられる。こういった人たちには何を言っても変わらず、こちらがとりあえず謝ることしかできない。そうした意思の疎通すら交わす気がない、また通じない部分もエイリアンと考えるひとつの要素である。 

つまり、私にとって彼らの到底共感できないその行動・常識の無さ・コミュニケーションがままならないという3点は自分の常識や良心とはかけ離れているため、私はクレーマーをエイリアンだと考える。

 

 

 

 

 

②「共同体」と「疎外」

 共同体と疎外について考えるにあたり私が選んだ作品は「ごくせん」と「ドラゴン桜」である。

「ごくせん」は新米教師の山口久美子(通称ヤンクミ)が、問題児ばかりを集めたクラスの担任を任せられ活躍するストーリー。一方の「ドラゴン桜」は落ちこぼれ高校の経営破綻を救うために、教師として雇われた桜木健二が東大受験のみに特化する特進クラスを設け、おちこぼれの生徒たちに受験のテクニックを教えるストーリーである。

この二作品の「共同体」と「疎外」における共通点は、

1、学校という共同体の中で、1つのクラスだけが隔離されていること。

2、教職員という共同体の中で、主人公となる教員が嫌がらせを受けかつ対立している。

まず1の場合、「ごくせん」の場合は不良生徒のみを集めたクラス、「ドラゴン桜」の場合は東大受験をする者だけを集めたクラス。ここでの共通点は不良というだけではなく、他のクラスから遮断され物理的に疎外されていること、また特殊なクラスに所属することによって他クラスの生徒から馬鹿にされている点が挙げられる。2の場合は、他の教員たちは特殊なクラスの生徒に対し軽蔑的であり、主人公に対して「早く辞めればいい」「失敗したらあなたの責任」など言われ、教員からの嫌がらせも受けている。しかしこれに対し主人公は教

員の嫌がらせに屈せず、真摯に生徒と向き合っていく。そしてその姿勢がまた主人公への疎外を加速させる要因となっている。

 これらの疎外に対して考えられる解決策は、まず1の場合、教室を他のクラスと同じフロアに設置すること。そうすることで休み時間や移動の際に他クラスの生徒と交流する機会が増え、彼らに対する不安や緊張、また偏見が薄れていく。他には不良生徒自体の意識を変えさせること。これは「ごくせん」の場合のみではあるが、不良であるがゆえに他生徒から避けられ、被害者になるかもという恐怖を生んでいる。これを解決するにはよっぽど気があって仲良くなる以外には不良を辞め、他の生徒と同じクラスで過ごせるくらいには更正することが必要だと思われる。2の場合は、教員側が特殊クラスの生徒を認めること。彼らは特殊クラスの生徒のことを見下しているが故に、そのクラスの担任につき生徒と分かり合おうとする主人公に対しても好感が持てない。加えて、偏見を捨て話し合う機会を設けること。主人公は、突然現れた優れた教師かもよくわからない、ある意味「未知の存在」であるため教員たちは警戒し自分たちの輪の中に入れないようにしている。また主人公側は学校の問題の1つに教員側に責任があると教員たちに指摘しているため、それを認めたくない教員は主人公に対して嫌がらせを行う。それを解決するためには、教員が自分たちの持っている偏見や問題と向き合い、主人公とお互いの意見を交換できるくらいの関係を構築することが必要となる。

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