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ファンタジー、幻想小説を書く  

課題:上京した人物を一日案内する小説を書く。

手鏡          

担当:大羽智貴

いつもと変わらない新宿だった。一歩でも歩けばぶつかりそうになる人ごみ。何とも言い難い都会独特のにおい。そこら中から聞こえて来る広告の音。

 そんな新宿で母と待ち合わせをしたのは、僕が東京の大学を出て、社会人になってからまだ間もない5月のことだった。その日は当時付き合っていた彼女とデートの約束をしていたのに、母がどうしてもというので、その予定を断って、田舎から上京してきた母を案内することになった。待ち合わせの新宿駅に着いた母は、普段よりもおしゃれな恰好で、大きな荷物を抱えていて、慣れない人ごみにそわそわしたような様子で、いつもと少し違う母に見えた。「まるでお祭りでもやっているみたいに人がたくさんだね。」と到着した母が言うので、どこか行きたいとこはあるか、と尋ねた。

 僕は結局、浅草を案内することにした。新宿から神田へと向かう中央線の中で、母は修学旅行でわくわくしている小学生のような無邪気な笑顔で色々な話をしていた。最近の父の様子や、今流行っているダイエットのこと、近所のおばさんの噂話。いつものおしゃべりな母だった。

 銀座線へと乗り換えるために神田で電車を降りた。母はSuicaを持っていなかったので僕は母が切符を買うのを待っていた。切符を買う母の後ろ姿が、小さい頃、夕飯の前によく見た母の後ろ姿と重なって、どこか懐かしく感じられた。

 浅草へ着いてからも母は楽しそうだった。ずっしりと佇む雷門を見て感心する母や、大勢いる外国人観光客を物珍しそうに眺める母を見るのはとても新鮮だった。

 途中、ふらっと立ち寄ったお店で、可愛らしい手鏡を見つけたので、僕はそれを母にプレゼントした。丸くて、裏がきれいな千代紙模様になっている小さな手鏡だった。母は嬉しいような、でもどこか照れくさいような笑顔で手鏡を受け取った。

 今思うと、それが自分の稼いだお金で買った初めての母へのプレゼントだった。

 僕が、そんな一日を思い出したのは、母の葬式の夜、整理していた遺品の中にこの手鏡を見つけたからだ。

 手鏡の中に、あの日と同じ無邪気な笑顔で話す、いつものおしゃべりな母が見えた。

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